燕妮
人生は漂流ようなものだ。ある人にとって、それはいろいろなところに漂ったりするが、誰(shuí)にとっても、それは青春の河、年の河に漂流したものだ。そしたら、家はどのようなものだろう。
家は、放浪の子の避難港だ。世の中で、外で流れ歩いている人々がたくさんいるが、心の奧にずっと一つの信念を守っている-------家に帰る。
ホーマー史詩(shī)の中の英雄オデュッセウスは長(zhǎng)年外で漂流し、苦難と誘惑を経験し、家の考えを支えてくれるからこそだ。最後、女の神様Calypso は彼が永遠(yuǎn)に彼女の島にいるために、説得していたが、「尊い神様、あなたの美しさ、永遠(yuǎn)若くて生きていくことをしっているが、うちの妻はきっと死らぬわけではなく、僕の故郷が戀しい」と彼は斷った。
古代から、文人墨客は故郷への思いを吟詠したことがある。家と家族、祖先、流れ去った子供時(shí)代は民族歴史につながっているのではないかと思っている。世界で家よりきれいで、魅力的なところがいっぱいあるが、ただ自分の故郷は心の中で、一番美しいものだ。それは母のように、選ぶわけにはいかない。家は美しくても美しくなくても、家族を離れたくない感情が重要だと思う。
「家族」というのはどういうことかと少し考えてみると、家族は人生の揺籃ようなものだと思う。私たちが生まれてから、まず家族のまわりで成長(zhǎng)する。家族は私たちに影響を與えて、人生の筋道を教えてくれた。家族によって、違う人生を育ている。暖かい家族が育てる子供はいつもいい子だ。逆に、冷たい家族が育てる子供はいつも冷酷な子だ。私たちは揺籃のような家族の中でだんだん成長(zhǎng)してきて、最後に大人に成長(zhǎng)していく。家族には感謝すべきではないかと思う。
そこで、家族は避難港ではないかと思われる。人生の中でいくつかの困難にあうにかかわらず、家族は永遠(yuǎn)にある。私たちは家へ帰る限り安心を感じる。家族は永遠(yuǎn)に私たちを捨てないので、家族は私たちの避難港だ。入學(xué)試験の前、私はいつも學(xué)校で一所懸命に勉強(qiáng)していて、時(shí)々大変疲れると感じた。しかし、家へ帰って、両親と一緒に食事をして、疲れはなくなった。だから、外で疲れる時(shí)、家へ帰ろうと考えてしまう。そして、家族と一緒に休んだ、再出発しよう。日本で生活している私にとっては、勉強(qiáng)やアルバイトがつらいと、非常に家に帰りたいという気持が湧いてくる。
中國(guó)では「疲れた鳥は巣が戀しい、落ち葉は根に帰る。」という諺がるある。家は戀愛(ài)や友情では代わりのきかない、特別なつながりだ。何も信じられなくなった時(shí)も、無(wú)條件で受け入れてくれる場(chǎng)所だ。
今、留學(xué)生としての私は、このようによく感じている。毎度、家族に電話をかける時(shí)、家族が話しきれない心配をしてくれて、それに対する私のほうも家族の健康を気がかりしたりする。家族に會(huì)えなくても、ただ電話から家族の聲を聞こえたら、幸せだなと思うようになる。人生の中で、つらいことがあっても、失敗しても、いつも勵(lì)んでくれ、平靜にいられるところだ。これは家族の絆ではないかと考えている。だから、自分をこの世の中に送り出してくれた人への感謝を持ち続けて、育ててくれた人の深い愛(ài)情を感じながら生きていきたいと思っている。
家、家族---永遠(yuǎn)の避難港だ。愛(ài)している家族がいる限り、どのような困難にあっても、あきらめようとは思わない。私にとって、家族は一番大事なものだと思うからこそ、いつも私の家族を惜しんでいる。